
当時、そのとき、私は何年ぶりかに東京に出てきた母と妹と会うために浅草に来てました。
私は旭川市出身なので、ほぼ地震を体験したことがありませんでした。
母も妹も同様です。
母妹とおち合う少し前、大きな揺れが襲ってきました。
思い出すと、コインパーキングに停車している車が地震の影響で揺れ動いていました。 周囲にいた人たちは少々パニック気味だったと思います。
私は、なんとか母と妹に会うことが出来たのですが、妻が別行動で地下鉄を使って浅草に向かっていたので、それも心配でした。
ちょうど、揺れだすタイミングで地下鉄が浅草に到着し、偶然にも地上で妻とも会えました。
私達は母妹が宿泊していた、浅草ビューホテル1Fの喫茶店で休むことにしました。
喫茶店内のニュースでは、津波の様子と被害状況が伝えられていた気がします。
それは、まるで映画の中の光景のようでした。
気がつくと喫茶店には長蛇の列ができており、私は母が着席できていたことに安堵していた気がします。 身内が同じ場所にいてくれたことも大きな安堵でした・
夕食は一緒に食べたいと思っていたので、空いている店を探し余震の中で食事を食べた記憶があります。
食事ができるお店を探す間、合羽橋の店舗を除くと散乱した割れた食器が足の踏み場も無いほど覆っていたと思います。
食後、私は車で浅草まで来ていたので、車で帰宅するのですが、信号機も消えていた気がします。 そして車は大渋滞、更に歩いて帰宅する人の姿が歩道を埋め尽くしていました。 自宅に到着したのは朝方でした。
帰宅後会社に向かったことを覚えています。
当時、私は大泉町に単身赴任していたので、やっとの思いで到着した会社の寮は壁に亀裂が入り寒々しかった思い出があります。
のちのちに、分かったのですが、遠い親戚が2名、津波の犠牲になりました
写真は約一ヶ月後に石巻を訪れた時のものです。
(憶えておくために書き残す)